世界文化遺産
- 石窟庵
- 仏国寺
- 海印寺の蔵経板殿
- 慶州歴史遺跡地区
- 仏祖直指心体要節経
- 山寺、韓国の山地僧院
石窟庵
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石窟庵は新羅時代景徳王10年(751年)に、当時宰相であった金大成によって創建が始まり恵恭王10年(774)に完成した当時は、石仏寺と呼ばれた。
石窟庵の石窟は、新羅仏教芸術の全盛期に作られた最高傑作と賞賛されている。特に、建築、数理、幾何学、宗教、芸術などが総体的に実現されていることから、一層の注目を集めている。
石窟庵は吐含山の中腹に白の花崗岩を使って人工的に造られた石窟である。 内部は本尊仏の釈迦牟尼仏を造成し、本尊仏を中心に周りの壁面には菩薩像と弟子像、力士像、天王像など40の仏像が彫刻された。
しかし、現在は38の仏像だけが残っている。石窟庵の彫刻は深い信仰心と優雅な技術が調和を成した統一新羅時代の傑作として、世界的な作品であり、韓国仏教を代表する芸術として知られている。
石窟庵の構造は、入口にある長方形の前室と円形の主室を廊下の役割をなす通路で連結するもので、約360個の平たい石で円形の主室の天井を絶妙に構築しており、その建築技法は世界に類のない優れた技術とされる。 現在、石窟庵の石窟は国宝24号に指定、管理されており、1995年12月には仏国寺と共にユネスコ世界文化遺産に登録された。
仏国寺
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仏国寺は石窟庵と同じ時期に創建された。
宰相であった金大成が前世の両親のために石窟庵を建てて、現世の両親のためには仏国寺を建てたと伝わっている。
仏国寺は奧深い仏教思想と天才芸術家の魂が独特な形で表現され、世界からその優秀性を認められた記念碑的な芸術品である。
仏国寺は新羅人が想像した仏の国、理想的な彼岸の世界を地上に移したもので、『法華経』を拠り所にした釈迦牟尼仏の裟婆世界、『無量寿経』を拠り所にした阿弥陀仏の極楽世界、『華厳経』を拠り所にした蓮花蔵世界を形象化したものである。
精巧に仕上げられた蓮花橋と七宝橋の石柱と円形の石欄干は、その精巧性と莊厳性が引き立っている。高さ8.2メートルの釈迦塔は全体の比例と均衡が絶妙するもので、簡潔ながら莊重な趣を感じられる。
その一方、高さ10.4メートルの多宝塔は精巧に仕上げられた石材を木材建築のように組み合わせたもので、華やかな莊厳美と独特な構造をもっており、優れた芸術性が評価されている。仏国寺は1995年12月、石窟庵と共に世界文化遺産に登録された。
海印寺の蔵経板殿
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海印寺蔵経板殿は13世紀に造られた世界的な文化遺産である高麗大蔵経(八万大蔵経)板を約八万枚保存する宝庫で海印寺の現存建築物中、最も古い建築物である。
正面が15間、側面が2間からなる規模の建物2棟が並んで配置され、全体的には長方形である。風通しを良くするために、南側と北側の窓の大きさを違えて、窓を設置した。
また建物の中の地面に炭と石灰の粉、塩を砂と混ぜて敷いて、湿度を適切に保つように作られている。
高麗大蔵経板が今日までよく保存されてきた理由は、 蔵経板殿の建築方式に、自然条件を利用した、科学的で合理的な設計があったためである。
この板殿には木板に刻まれた81258枚の大蔵経板が保管されている。 文字の数はおよそ5200万字と推定されるが、これらの文字が一字として誤字・脱字が無く、すべて等しく精密という点から、その価値が認められている。そればかりでなく、現存大蔵経の中でも最も古い歴史と内容の完璧さにより世界的な名声も得ている。
大蔵経は仏様が45年間衆生へ説法した内容を記録したものである。それぞれの内容は経・律・論の三蔵で構成されている。高麗大蔵経は顕宗(1009~1031年)の在位の時期に刻まれた初雕大蔵経が蒙古軍の侵入により焼失したため、蒙古の侵入を仏様の力によって防ぐことを念じて、再び作ったものである。高宗19年(1232年)、国が大蔵都監を設けて高麗大蔵経の製作を推進した。再び作られた大蔵経であるため「再雕大蔵経」とも呼ばれ、経板の数が八万枚を超えるので八万大蔵経とも呼ばれている。
大蔵経は高宗24年(1237)から高宗35年(1248)までの12年間板刻された。大蔵都監の設置から数えると、16年の歳月をかけて完成されたのである。海印寺蔵経板殿は国宝第52号に指定され、管理されている。1995年12月にユネスコ世界文化遺産として登録された。
慶州歴史遺跡地区
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慶州歴史遺跡地区(Gyeongju Historic Areas)は、新羅1000年(B.C57∼A.D935)の古都である慶州の歴史と文化をそのまま反映した遺跡地である。
仏教遺跡、王京遺跡がよく保存されており、多くの遺産が残る総合歴史地区として52個の指定文化財が世界世界文化遺産地域に含まれている。
仏祖直指心体要節経
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よく『直指心経』と呼ばれる『仏祖直指心体要節』は、高麗禹王3年(1377年)に印刷された現存世界最古の金属活字本で、西洋のグーテンベルク『聖書』の金属活字より78年も先立っていた。現在フランスのパリ国立図書館に所蔵されている。
景閑が仏法を弟子に教えるために、歴代の諸仏祖師の偈、頌、歌、銘、書、讃、法語、問答で禅の要諦を悟るのに必要なものを抄録したものである。 2001年にユネスコ世界記録遺産として登録された。
山寺、韓国の山地僧院
「韓国の山地僧院(以下、山寺)」は、韓国の寺院の中で7つの山寺を称する文化遺産であり、2018年6月30日にバーレーンで開催された第42回世界遺産委員会でユネスコの世界遺産に登録された。「山寺」は通度寺、浮石寺、鳳停寺、法住寺、麻谷寺、仙巌寺、大興寺の7カ寺を指し、これらの寺院は、韓国の国土を山岳が多く占めるという韓国の地形上の特徴によって、全国に渡り位置している。7つの山寺は、行政区域上の区分で5つの道と7つの市・郡に属している。山寺は大衆の支持を受けた大乗仏教の主な宗派と思想―戒律宗・華厳宗・法相宗・禅宗・釈迦・弥勒・阿弥陀信仰―を総合的に合わせた特徴を持ち、韓国仏教の礎である。また、山寺は7世紀から9世紀に創建されて以来、韓国仏教の歴史的な変遷や持続の過程を共に歩んできた有形・無形の文化遺産の宝庫である。これら7つの山寺は、国、市、道の文化財に指定された建築物や遺物、文献などを保有しており、仏教の無形の伝統を現在まで継承している。韓国仏教の独特で無形的かつ歴史的な側面は、山寺の優れた普遍的な価値(Outstanding Universal Value)として認められた。これは山寺の長い歴史や持続性、寺院の管理伝統、僧伽教育、禅修行、教理修得に基づいたものである。
僧院の空間的な配置は僧伽の自給自足の生活だけではなく、上記の特性も反映されている。7つの山寺は、共通して山そのものが持つ自然形態に合わせて建てられた。全ての山寺は1つ以上の「庭」を持ち、庭の四面には仏殿・楼閣・講堂・僧堂などの殿閣が建っている。この7つの山寺は、朝鮮時代の抑仏政策や壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を乗り越え、現在に至るまで信仰や日常生活を継承してきた韓国仏教の優れた文化遺産である。
通度寺
通度寺は慶尙南道梁山市の霊鷲山に位置する寺院であり、646年に慈蔵律師が創建した。慈蔵律師は、新羅仏教を戒律に基づきながら導くために、通度寺に金剛戒壇を設置し、釈迦の真身舎利を戒壇に奉って新羅仏教の求心の地とした。通度寺は高麗時代と朝鮮時代を経て現在に至るまで途絶えることなく韓国の戒律を代表するお寺としての位相を守ってきた。
高麗時代に通度寺は戒壇と霊山殿で構成されていた。14世紀に入ると通度寺は大寺刹として発展し、現在の通度寺の基盤を整えた。朝鮮時代前期にあたる15世紀、朝鮮王朝は仏教界を整備し、国が定めた寺院のみを寺院として認める政策を施し、勢力弱体を図った。それに対し、通度寺は仏教教団を整備し、1407年に福を祈る寺院の1つとして朝鮮王朝より認定してもらい、勢力を維持した。
1592年の壬辰倭乱の時(文禄・慶長の役)、通度寺は戦乱を避けて真身舎利を移し、また大雄殿が戦火に包まれるなどの被害を受けた。しかし、17世紀より持続的に再建を行い、1645年に大雄殿を重建して以降、本格的な再建事業が着手され、大雄殿一帯の上爐殿、大光明殿一帯の中爐殿、霊山殿一帯の下爐殿から構成される三爐殿が完成した。
通度寺は総合僧院としての特性がよく見られる寺院である。境内では僧侶と信徒達が信仰生活と修行生活を行う空間が区分されている。信仰の空間として代表的なものとしては、大雄宝殿と金剛戒壇がある。大雄宝殿は金剛戒壇と共に仏様を祀る仏宝信仰の源になり、また仏様の真身舎利が金剛戒壇に奉安されていることを考慮し、大雄宝殿の仏壇には仏像を奉らない特殊な構造を成している。修行のための空間も多様であり、通度寺は修行の空間として禅院、講院、律院を全て兼ね備えた叢林である。韓国仏教では僧侶の修行方法として禅・教・律がある。禅院では自分の心を真っ直ぐに見て悟る看話禅の修行を行い、講院では経典を学び、律院では戒律を学ぶ。
通度寺は金剛戒壇が特別な意味を持っている山寺である。
戒壇は出家者と信徒の受戒儀式が行われる儀礼の場所であるが、通度寺の戒壇は、仏様の真身舎利を奉安された金剛戒壇として仏様自体を象徴する信仰の空間である。受戒は戒壇が整えられた他の寺院でも行われるが、通度寺の金剛戒壇では、韓国の受戒精神の継承と儀礼の面からも重要な聖地として韓国仏教を代表するという意味を有している。
その他にも、通度寺を代表する儀礼として開山大斎がある。これは創建者慈蔵律師が通度寺を創建した事実を祝うものであり、それを継承することを誓う独特な儀礼として毎年陰暦9月9日に盛大に行われる。
浮石寺
慶尙北道栄州市に位置する浮石寺は676年に華厳宗の開祖義湘(新羅)によって創建された。新羅の精神的な支えとして三国を統一する基盤になった仏教は、三国を統一した以後も王権中心の新たな統治体制を支える面で思想的基盤を提供し、義湘大師は王命に応じ、円融思想である華厳教理に基づき浮石寺を創建し、円融思想の華厳教理は統一国家の中央集権の体制を確立するのに重要な役割を果たした。その特徴は、義湘大師が全国に建立した華厳十刹などの華厳宗と関係を持つ仏教美術の中にもよく表れている。統一新羅の時代、国家によって建立された浮石寺は建立当時から円融思想の脈絡で理解されてきた。
それ以後、浮石寺は高麗(918~1392)と朝鮮(1392~1910)を経て現在に至るまで絶えず、韓国仏教の弥陀信仰を代表する山寺の位相を継承してきた。浮石寺は鳳凰山の麓の急傾斜の地形に立ち、優れた景色が有名な山寺である。創建されて間もない頃は祖師堂と無量寿殿の区域が中心となり、それ以後傾斜地に沿いながら石垣を築き、殿閣を建立した。9世紀になると、現在の伽藍様式が全て整えられ、壬辰倭乱(文禄・慶長の役1592~1598)の時も大きな被害を受けなかった。
浮石寺は韓国華厳宗の中心寺院であり、弥陀信仰の殿堂である。中心的建物である無量寿殿に祀った阿弥陀仏像は西方世界にいる阿弥陀仏を再現し、仏像が座っている方向を東向きにした。浮石寺は弥陀信仰を中心教理に据え、それを伽藍様式に具現したものとしての意味を持っている。無量寿殿は13世紀に建立され、韓国の中でも最古の木造建築物であり、中国の北方と南方の建築様式が全て見られる独特な建築物である。無量寿殿は東アジアの木造建築物の変遷過程を説明できる一例として重要な価値を持っており、優れた建築様式や技術を誇る建物である。
浮石寺の伽藍様式の特徵としては、一柱門より天王門、回轉門を経て梵鐘閣、中庭、安養樓へつながる軸線の節々に石垣を積んで、空間を作り、その空間に建物を建てたことが挙げられる。浮石寺の中心部分である無量寿殿に至るまでの自然形態に従って9つの断層を整えた。これは、西方の阿弥陀仏の極楽世界に往生する信者たちの九つの部類を意味する。その一方でこの断層は華厳菩薩道修行の精神を象徴するものとして解釈する場合もある。浮石寺の特徴は、寺院の空間を教理と関連づけ、それを基盤にして伽藍を構成したことにある。さらに無量寿殿の近くではあるが、軸線から離れたところに創建説話と関係がある善妙閣を建てたことも浮石寺の信仰の融合性をよく表している。
浮石寺は創建から現在まで出家者や信者達が共に成し遂げた僧伽を持続してきた。それを証明する儀礼として義湘大斎がある。義湘大斎は創建祖師である義湘大師を祀り、義湘の華厳思想を継承するため、毎年3月3日に行う儀礼である。無量寿殿で法会を行い、義湘大師像を祀った祖師堂で茶礼を献じる。茶礼を献じた後には、浮石寺で保管している華厳経の経板を頭の上に上げ、僧侶と信徒が共に法堂の前にある庭に描かれた法界図に沿って回りながら法性偈を念誦する、思想性が濃い宗教の祭りである。
鳳停寺
鳳停寺は慶尙北道安東市にある寺院である。677年、華厳宗の創始者である義湘の弟子、能人の創建と伝えられる。鳳停寺は安東市所在の天燈山の中、松夜川の上流周辺の傾斜面に創建された。14世紀、極楽殿の位置より東の方に大雄殿の区域を拡張し、その後大雄殿が中心空間になった。鳳停寺は壬辰倭乱(文禄・慶長の役1592~1598)の時、大きな被害を受けなかったため、極楽殿や大雄殿などの建築様式と伽藍配置は原形そのままを保っている。
鳳停寺は山の傾斜面に位置しており、大雄殿と極楽殿の二つを軸として伽藍を成す山寺である。鳳停寺では韓国の木造建築物の中で最も古い極楽殿(13世紀、柱心包様式)と、多包式建築物の大雄殿(14世紀)が中心部分を成しており、この二つの殿閣が弥陀信仰と釈迦信仰を形成している。鳳停寺には大雄殿の区域と極楽殿の区域が並び、二つの主仏殿が存在する。
大雄殿前の庭を中心に大雄殿、華厳講堂、無量海会、万歳楼から成るこの四面式構造は、韓国の山寺の特徴でもある庭園を中心とした伽藍形式の典型的な例である。また、極楽殿、古今堂、華厳講堂から成る庭は、大雄殿の庭と並び鳳停寺の伽藍配置を完成するものである。
小さな溪流を渡ったすぐ近くに位置する霊山庵は、まるで独立した区域のように営まれた。霊山庵には応真殿、観心堂、松岩堂、雨花楼の四つの建物があり、それらが「口」の文字の形をした四面構造を成している。これは他の場所でも、別途に信仰体系が展開されていたという特徴と共に、朝鮮時代の士大夫の家屋の「口」の文字の形が反映されたとも見てとれる。
鳳停寺には仏教が朝鮮王朝により迫害された時も、僧侶達が自給自足の生活や、性理学者達(士林)との文化的交流を通して、僧院を保護しようとした僧侶達の努力が残されている。
鳳停寺が位置する安東都護府(現、安東市)は16世紀以来、朝鮮性理学の中心地であった。前述した応真殿一帯エリアの朝鮮時代の士大夫家屋の特徴を反映した「口」の文字の形をした配置と共に、入口の楼門である徳輝楼(後に、万歳楼に改称)の扁額名も性理学の精神を盛り込んでいる。さらには、安東の著名な性理学者李滉(1501-1570)やその弟子達がよく鳳停寺を訪ねた。1665年の訪問を記念するため、鳳停寺周辺にー鳳停寺の緩衝区域に位置するー鳴玉台(ミョンオクデ)を建立した。鳳停寺は仏教経典を刊行するため、刊役所を営み、そこで安東地域の文人たちの文集も出版および管理しながら寺院経済の発展に一役買った。安東地域の性理学者達との文化的な交流は、鳳停寺が朝鮮時代にも生き残り、僧院として維持できる重要な要因になった。
鳳停寺では現在までも、僧侶と信徒たちが修行の一環として境内で野菜を育てつつ、共同生活を実践している。作物を育てることも修行の一部分であると考え、自然と一体になる生活を継承し、今でも伝統が残っている寺院である。
法柱寺
法柱寺は忠清北道の報恩郡に位置している。法柱寺は8世紀半ばに懺悔信仰を先導し、弥勒信仰を実践する法相宗を建てた眞表律師と、その弟子である永深によって創建された山寺である。その後、高麗時代や朝鮮時代にも存続されたが、16世紀に壬辰倭乱(文禄・慶長の役1592-1598)で焼失された後、重創を通して早くに復興されて以降、現在に至るまで途絶えることなく韓国仏教の弥勒信仰の寺院としての地位を確立してきた。法柱寺は俗離山の麓の達川という川の上流辺りにある広い平地に創建され、寺勢の拡張によって境内が拡大された結果、現在の規模を誇るようになった。最初に弥勒仏を奉安した珊瑚殿の中心区域から谷川に沿って北の方へ拡張され、17世紀には現在の伽藍・境内要素を全て揃えるようになった。17世紀に建築された韓国唯一の木塔様式の建物である捌相殿と、重層法堂を代表する大雄宝殿の建築物が保存されている。
法柱寺には弥勒信仰の建物が建っている。初めて弥勒仏を奉安した珊瑚殿を礼敬の対象として水を込めた石槽、香の供養を捧げる喜見菩薩立像、清らかな蓮の花と清水を捧げる石蓮地、典型的な八角石灯籠と独特な形式の双獅子石灯籠のような石造様式が造成されており、これらは現存し、いずれも文化財として指定されている。法柱寺では17世紀に韓国唯一の木塔形式の木造建築物である捌相殿と、重層建物である大雄宝殿の修復を通して、弥勒信仰と釈迦信仰が二つの軸を形成するに至った。大雄宝殿の釈迦信仰の登場にも関わらず、法柱寺では創建以来の弥勒信仰が今日まで中心的信仰として継承されてきた。青銅弥勒大仏は20世紀に制作されたものではあるが、法柱寺の弥勒信仰の象徴である。この大仏は、創建期に存在した弥勒仏を奉安した珊瑚殿が19世紀後半に宮殿の造成のため動員されなくなった後、その歴史性を継ぐために、何度も試みた末に完成されたものである。
法柱寺は、王室の願刹として指定され、王室から特別な支援を受けた寺院である。願刹に指定されると、寺院は国家の過度な税金や労役からの負担を減らすことができ、寺院経済を維持しながら、朝鮮時代終始繁栄することができた。1765年に法柱寺に建立された宣喜宮願堂は、英祖(在位1724-1776)の後宮である暎嬪李氏(1696-1764)の位牌を奉安し、祭祀を行うためのものであった。この願堂から、朝鮮時代の抑仏政策の下でも継承された仏教と朝鮮王室の密接な関係が見られる。
法柱寺の最も特徴的な儀礼は、弥勒大仏の基壇の下部に造られた龍華殿で毎月旧暦16日に多くの僧侶と信者が徹夜でお参りを行う弥勒祈祷である。これは法柱寺が創建当時から標榜した弥勒信仰を長い年月に渡り具現して来た信仰活動であり、寺院の独自性を守るための重要な儀式である。また、信徒たちが菩薩戒を通して仏教信者であること認めてもらう法会など、修行者と信者の信仰生活が繋ぐ多様な儀礼が行われている。
麻谷寺
麻谷寺は忠清南道公州市に位置しており、9世紀に禅宗の寺院が拡張される時期に創建された。その後、高麗時代と朝鮮時代を経て現在に至るまで釈迦信仰を表す寺院の特性を継いできた。麻谷寺は太和山の麓の麻谷寺川辺りに広がっている平地に創建され、寺勢が拡張されるに従い北院の大雄宝殿の区域から南院の霊山殿の区域に拡大され、現在の規模に至るようになった。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)によって被害を受けたが、修復後に元の姿に回復し、18世紀には現在の伽藍構成を全て揃えるようになった。
麻谷寺は谷川を境に分けられる北院と南院で構成されている。北院には広い庭の真ん中に14世紀に建立された五層石塔がある。この石塔にはチベット式の青銅相輪部が見られ、2段目の塔身の四面には四方仏を刻んだ独特な様式をとっている。このことから当時の中国、元との活発な交流が窺える。現在、この石塔は宝物として指定されている。南院は小さな庭を中心に霊山殿と禅の修行空間に分かれて構成されている。この他に麻谷寺の様々な寮舎や庫房といった生活空間が良く保存されており、僧伽の伝統的な生活の側面が見られる。
麻谷寺は護国仏教を代表する寺院として、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に僧兵活動の拠点として機能した。僧兵の集結地であった麻谷寺は、この時期に莫大な被害を受けた。戦乱後の17世紀には、死人の魂を慰めるための大規模の野外法会が行われ、多くの群衆が集まり、戦後の修復過程で大きな役割を果たした。
大規模の野外法会が大衆化されると、17世紀から野外法会のための大型仏画である「掛佛(掛け仏)」が本格的に登場するようになった。優れた初期の掛佛の作品の制作が麻谷寺を中心とした朝鮮半島の中部地方で始まり、この地域固有の様式が朝鮮半島の東南部(現在の慶尚北道や慶尚南道)にも伝播された。寺院に保管されている掛佛は独特な様式を示すと同時に戦後の朝鮮社会の研究に重要な情報を提供する。<麻谷寺掛佛>(1687)の画記には、大規模な仏事の完成のために様々な品物を供養した地域の僧侶と信徒たちの施主名簿が詳しく記録されている。このことは朝鮮後期の寺院の再建や大規模な仏教儀礼の挙行などの仏事の諸般に関わる後援の主体が、王室や中央政府から地方に移ったことを表している。また、仏画を制作するための最大規模の画僧共同体が麻谷寺を中心に活動していたため、碑林で彼らを記念する仏母茶礼祭が今日まで続いている。
仙岩寺
仙岩寺は9世紀後半に禅寺として創建された山寺で、全羅南道順天市に位置する。仙岩寺は曹溪山の麓の仙岩寺川周辺に広がっている平地に創建され、また道詵が指定した3500の裨補所の中には湖南の三岩寺として龍岩寺や雲岩寺と共に仙岩寺が含まれている。仙岩寺は創建以後、寺勢が栄えると共に北方向に立地が拡大し、現在の規模に至った。最初に大雄殿と2つの三層石塔がある区域が創建されて以降、徐々に北に拡張されたが、丁酉再乱で焼失し重建が行われた後も、火災にあいながら重建を繰り返し、19世紀に現在の伽藍構成が整った。大雄殿の2つの三層石塔は仙岩寺の創建時期を証明するものである。
仙岩寺は大雄殿の中に、釈迦牟尼仏のみを奉安した釈迦信仰の代表的な山寺である。また、大雄殿前の庭と万歳樓で定期的に霊山斎を行い、釈迦信仰を表している。
仙岩寺は山地の僧院であり、僧侶たちが伝統的な日常生活を行うための施設がよく保存されている。仙岩寺は多くの大衆が生活する大規模の山寺であったため、四方に囲まれたロ字型の建物が多く建設された。高麗時代から始まったと推定されているロ字型の重層型の建物は、それぞれ独立して運営された共同体の生活単位である。この6軒の建造物から仙岩寺に居住した人の数や規模を推測することができる。また、仙岩寺の閑所は最も古い形をした伝統的な閑所として、自然に優しい山寺生活の一面を見せてくれる建物である。この他にも、仙岩寺は禅の修行と共に発達した茶畑の運営が特徴的である。仙岩寺は茶畑から流れ出る水を3段の石造に受けて、さらに活用することによって、山と共に暮らす茶文化生活を実現し、広く普及した山寺である。
このような大規模な生活施設が仙岩寺の中で現在まで維持されてきた理由としては、仙岩寺が近代(20世紀初)に、朝鮮半島西南部の僧伽教育に於いて重要な役割を果たしたことが挙げられる。仙岩寺では、20世紀初頭の近代化に合わせて僧伽教育の伝統が大幅に改革された。その結果、1906年に仙岩寺昇仙学校、1914年に光州布敎堂、1920年に地方学林のような近代的な教育機関が設立された。仙岩寺昇仙学校は1913年に改定され、普通学校(小学校)と専門講院に分離し運営された。20世紀初頭の仙岩寺の現代的教育機関の設立と改定された学制の運営は、僧院の伝統講院を継承した近代的僧伽教育改革の重要な一例である。
仙岩寺の入口部分には、美しい虹形の昇仙橋が架かっており、周辺の岩の石には寺院の存続のために、集会や仙岩寺に観光した名士たちの名前が刻まれており、長い年月を重ねて継承されてきた仙岩寺に対する信仰を証明している。また、昇仙橋は僧侶たちが直接築造したものである。これは当時の僧侶たちが非常に優れた建築技術を持っていたことを示し、寺院の建造物の造成に直接加わっていたことを表している。
大興寺
大興寺は全羅南道海南郡に位置し、9世紀後半に禅寺として創建された。以後、高麗時代と朝鮮時代を経て現在に至るまで、韓国仏教の渓流型多重空間構成と護国信仰を代表する山寺として位置づけられている。大興寺は頭輪山の麓の大興寺川の横に広がる地形に創建され、寺勢が強くなったことに従い渓流を渡り、南に土地が拡大して、現在の規模に至った。当初は大雄宝殿がある北園一帯に立てられ、徐々に渓流を渡り南に拡張され、19世紀までに現在の伽藍構成が全て整った。境内は大雄殿から渓流を渡って千仏殿、表忠祠、大光明殿の各区域に分けられる。
大興寺では釈迦信仰が中心であるが、表忠祠で代表される様に護国信仰も大興寺の重要な要素である。表忠祠は壬辰倭乱の時、日本の侵入を防ぎ、多大な功績を挙げた西山大師と弟子たちを祀るため、1789年正祖の「表忠祠」という直筆の扁額と共に建立された祠堂であり、寺院では珍しい儒教式要素を備えている。当時、禮曹の担当者が大興寺に行き西山大師の祭祀を執り行った。それが大興寺の代表的な礼儀である西山大祭であり、大興寺が西山大師の遺訓を受け、朝鮮後期仏教界の中心となった歴史や伝統を今日まで継承する重要な儀式である。西山大師の功労に対する国の評価と表忠祠の建設および儒教式祭祀のための、国家による支援は僧侶の社会的地位と役割を向上させた。僧伽は再び活気を帯び始め、戦乱で焼失した寺院の復旧もまた、同地域に住む信徒の参加と共に大規模に行われた。
また、大興寺には17〜18世紀の韓国仏教を主導した数多くの高僧たちが活動していた痕跡が残っている。12人の宗師と12人の講師たちは、当時禅と教学に最も優れた高僧たちであり、大興寺には彼らを称えるため塔院が造られた。そこには西山大師の僧塔や塔碑を始め、20世紀に至る47の塔と塔碑があり、これらは大興寺の歴史性を証明するものである。塔と塔碑は数百年間に渡り造成され、祖師を崇拝する山寺の傾向に倣いつつ継承されている。